ストーリー セナの第六感

8分

1991年、アイルトン・セナは6速ギアだけで走行しながら、奇跡に近いパフォーマンスを披露し、母国グランプリで初優勝を果たします。

アイルトン・セナ、アメリカGP、1991年。

アイルトン・セナに対する私たちの記憶にギャップはありません。あなたがもし、宇宙人にレーシングドライバーのことを説明しなければならないとしたら、無意識のうちにセナを思い浮かべるかもしれません。と言うのは、ちょっとおおげさですが、セナのドライビングに関して語られる表現はまさしくおおげさで、全てのターン、全てのラップ、全ての勝利のことが大げさに採り上げられました。セナのドライビングを見ることは、スピードの神殿に詣でることです。セナのオンボードカメラのYouTube映像を見ても、セナの偉大なドライビングの数々を真似てみても、「どうやってセナはあんなことできたんだろう?」と思わず首をかしげずにはいられないはずです。

« 目の前にあるギャップを埋める気がなくなったら、もうレーシングドライバーではありません。 »

アイルトン・セナ

セナは、間違いなくF1が生んだ最も魅力的なドライバーでした。レーシングファンなら誰でも、自分なりのセナ像を持っているはずです。セナと言えば鈴鹿。レインマスターのセナ。寡黙なセナ。怒れるセナ。サッカーを崇拝するブラジルという国で、セナはペレと並ぶ英雄でした。想像してみて下さい。「まるでカメラマンたちを見ているかのようで、そして気付くとミケランジェロが描いた絵を見ているかのようだった」とセナのライバルたちを例えた有名な台詞もあります。

もうひとつ、元F1ドライバーのジョン・ワトソンの言葉もご紹介しましょう。「レーシングカーの中で、今まで誰もやったことがなかったことを、彼がやったのを私はこの目で見て、この耳で聞いたのです。まるで4本の手と4本の足があるかのようでした。彼のブレーキング、シフトダウン、ステアリング、スロットル操作など、マシンはコントロールできているようでいて、できていないかのような、まるでナイフの刃の上にいるようなきわどい状態でした」 そのナイフの刃の上にセナが立っていたのが、1991年、雨のインテルラゴスの午後でした。

Norio Koike ©ASE

呪われた母国グランプリ

1991年、アイルトン・セナはすでにスーパースターの仲間入りを果たしていました。この年はF1参戦8年目のシーズン。セナはすでに2度の世界チャンピオンの座に就いていました。しかし、地元サンパウロのインテルラゴス・サーキットで開催されるブラジルGPでは、まだ勝利を収めていなかったのです。彼はこの不運な連鎖をどうしても断ち切りたいと願っていました。2位、失格、トップ走行中の事故まで、セナは勝利以外の全てをここブラジルで経験していたからです。ですから、レース前夜、セナの決意には並々ならぬものがありました。予選では、すばらしい走りを披露し、リカルド・パトレーゼやナイジェル・マンセルといったライバルマシンの猛追を抑えてポールポジションを獲得。これで優勝に一歩近づきます。

「オーレ!オーレ!オーレ!オーレ!セナ!セナ!」

決勝当日のインテルラゴスは、まさに大鍋を叩き鳴らしているかのような騒々しさでした。サーキットではおなじみのセナを応援する大合唱が鳴り響いていました。この日ばかりは、ブラジル中の誰もが、母国を愛するヒーローが故郷に錦を飾ることを予感していたのです。全てがセナの勝利をお膳立てしていました。ギアボックスを除いては… 全てのレッドシグナルが消灯してレースがスタートすると、セナにとってこれまでのブラジルGPの中でも最も楽なレース展開になるかのように見えました。しかし、彼はポールポジションを獲得したことを祝うのを拒否していたのです。母国で表彰台の一番高いところに立つという、彼が想像できるものの中でも最高のプレゼントを手にするチャンスがふいになるような、ぬか喜びはしたくないと思っていたからでした。

まるで冗談のような不具合の連続

レースが進むにつれて、セナの後ろを走るドライバーたちが悪戦苦闘し始めます。チームメイト、ベルガーのマシンは火を噴き、セナとデッドヒートを繰り広げていたナイジェル・マンセルは、ギアボックスが不調になり、さらにタイヤまでパンクしてしまいます。これで今回こそ、何シーズンも苦杯をなめた母国グランプリをセナも楽勝でチェッカーフラッグを受けるのではないかと思われました。しかし、残りわずか10周となったところで、悲劇がセナを見舞います。セナのギアボックスが、ライバルたちの苦難を遥かに凌駕するトラブルに陥ったのです。ラップを重ねるごとにギアを失い、最終的には6速しか使えなくなってしまいます。幸運は勇者を好むと言いますが、今回ばかりは、明らかに違っていました。

Norio Koike ©ASE

超人的なギア操作

6速しか使えなくなったとはいえ、セナは第六感を働かせているかのようにマシンを駆っていました。サーキットはインテルラゴスでしたが、セナはまるで超人的な次元でレースをしていました。猛スピードでマシンを走らせていたら、ギアが6速から変えられなくなった。そんな時の自分の姿を想像してみてください。目も、腕も、心も、足も、全てをシンクロさせて動かさなければなりません。ゴールラインを越えるまでは、全くミスは許されません。ほぼ間違いなく敗北に終わるダンスを踊っているかのようなものでした。しかし、そこで踊っているのはセナであり、この場こそナイフの刃の上― 他のレーサーならサーキットの脇にマシンを停めて早々にリタイアしてしまうような状況でセナが優勝への執念で走る異世界ゾーンだったのです。ここからは、どんなに大げさに表現しても、大げさでなくなってしまう状況が展開します。

一天にわかにかき曇り

6速のみで走るだけでも大変なのに、さらに別の試練が天空か降ってきます。雨が降り始めたのです。コースは、長く曲がりくねったバナナの皮のような状態になります。2番手を走っていたパトレーゼが、セナにどんどんと近づいていきます。6速でスリップしながら、滑るように走るたびに、希望も一緒にスリップして、滑っていくかのようでした。雨が降りしきる中、2台は最終ラップに入り、セナが表彰台の一番高いところに立てるかどうかに一抹の不安が生まれました。

人生で最高の贈り物

そして、永遠に続くかのように思えたレースも、セナが自らのギアボックスを制し、雨を切り裂き、パトレーゼを振り切り、トップでフィニッシュラインを通過してフィナーレを迎えます。セナはピットとの無線に向かって信じられないような声で絶叫し、号泣します。サーキットにいたファンからは安堵の歓声が広がっていきました。セナは、コースマーシャルから渡されたブラジル国旗をつかみますが、この時すでに全精力を使い果たしていました。ウイニングランでマシンを走らせることも、国旗を振ることもできませんでした。セナの第六感がゴールと同時に彼の腕や肩の筋肉を完全に麻痺させてしまったのです。表彰台に上がったセナは、かろうじてトロフィーを頭上に持ち上げることができました。セナは後に、大観衆の愛と熱狂が、彼いわく “人生で最高の贈り物” を持ち上げる力を与えてくれたと語っています。

限界に触れる

セナはかつてこう語っていたことがあります。「ある日、ある状況において、自分はもうこれ以上無理だと思ったとする。それでもその限界に向かって、それに触れると『よし、これが限界だ』と思う。でもこの限界に触れた途端、何かが起きて、突然もう少し先に進めるようになる。精神力、決断力、直感、そして経験があれば、とても高く飛べるはずなんだ」 そして、1991年のこの日、彼はとても高く飛びました。私たちはこの日をセナが6速しか使えなかった日として記憶しています。でも本当はセナが第六感を得た日として記憶すべきなのかもしれません。

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セナは生き続ける

セナは永遠のレジェンドです。彼を語り継ぐ場はモータースポーツ界だけにとどまらず、その遺志は、ブラジルの子どもたちや若者の教育を推進するアイルトン・セナ財団にも受け継がれています。財団は、教育に関する専門家、調査団、第三者機関と連帯し、公的教育政策の改善に取り組んでいます。

「タグ・ホイヤー フォーミュラ1 セナ スペシャルエディション」は、今も語り継がれる永遠のレジェンド、アイルトン・セナに捧げるタイムピースです。ブラックとレッドの大胆なカラーリングを施したサンレイ加工サテン仕上げのアンスラサイトダイヤルが、完璧を求めてやまなかったセナの意志を反映する、強い印象を残します。そこには、どんなにスピードが出ていようと、状況に的確に適応し、落ち着きを失わなかったセナのドライビングが象徴されています。

この新作リミテッドエディションの詳細は、タグ・ホイヤー公式サイトをご覧下さい。

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