スポーツ 消えぬヒーロー - アイルトン・セナ

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伝説の巨人たちを輝かせる、記憶の旅へ。スポーツ界の巨匠たちの素晴らしきストーリーが、現代に蘇ります。

モータースポーツ界で、その歴史を通して最も輝くスターのひとり、アイルトン・セナ。真のレースのスピードを探求し、生涯情熱を燃やしたドライバーです。ブラジル人の両親のもと誕生したセナが、初めて自分のゴーカートを手にしたのは4歳の頃。スポーツ界に限らずとも早いキャリアのスタートでした。その後13歳で、初めて参戦したカートレースで優勝を果たします。少し先へ進んでその10年後には、セナは既に、英国の5つのチャンピオンシップで優勝を手にしていました。それ以来この若きドライバーは、ゲームの頂点に立ち続けました。1994年、あの致命的なイモラでの事故までは…。

1988年からタグ・ホイヤーのアンバサダーとして活躍したセナは、ブラジルの偉大なヒーローの一人として知られています。セナのドライブ法は幾度となく手本として繰り返され、トップを目指すドライバーたちにとっての聖なるマントラのような存在となっています。65のグランプリでのポールポジション、41のグランプリ優勝、そして3度のワールドチャンピオン獲得。

彼の運転を、まるで取り憑かれたようだと言う者もありました。また、常に限界で運転していると言われることもありました。しかし、すべての人に確かなことは、彼がただ、輝いているということでした。セナ亡き後、四半世紀が立った今、そのキャリアを通して最も記憶に残る瞬間を振り返ってみましょう。

レイン・キング(1984年、モナコ)

セナが他の誰より秀でたドライバーであったひとつの理由に、ウェットなレーストラックでの卓越したドライブスキルがありました。それを見せつけたのが、1984年、モナコで行われたF1レース。トールマンでルーキーとして出場したセナは13位からのスタートでした。滑りやすいコンディションの中にも関わらず、周ごとにタイムを縮め、2位でフィニッシュ。多くのファンが、このレースが32周でストップしなければセナが優勝していたはずだと信じ、物議を醸す結果となりました。

ベスト・イン・ショー(1985年、エストリル)

1985年、エストリルで行われたポルトガルグランプリで、セナは、それまで過去3年間優勝を逃してきたチーム、ロータスに移籍して出場。予選での驚くべき走りでポールポジションでのスタートを獲得しました。決勝当日は、黒雲が立ち込め豪雨に見舞われ、まるでモンスーンのようなコンディション下での開催となりました。それでもセナは、本能的ともいえる落ち着きで限界までスピードを出し、2時間のドライブをノンストップで完走したのでした。初めから終わりまでトップを走り続けたセナは、このレースで、彼の41のGP優勝の内の最初の一つを獲得します。同時に、難易度の高いコンディションを走る抜ける確かな技術を見せつけたのでした。F1でのセナの初優勝となったこのレースは、彼が最高の走りを見せたレースだとも言われています。

アイルトン・セナ

ゼロからヒーローへ(1988年、日本)

1988年10月、鈴鹿サーキットで開催された日本グランプリ。マクラーレンに移籍したセナは、スタート後に車が停止するという最悪なスタートを切ることになりました。それでも、その強い意志がそうさせたのか、セナは車を動かすことに成功し、1ラップで6台を追い抜くという、F1の歴史に残る素晴らしい走りを見せたのでした。14周目で雨が降り出すと、セナは再びウェットなコンディションでの走りの技術を生かして走行。マクラーレンのチームメイト、アラン・プロストに13秒の差をつけて優勝しました。このレースで記録的なパフォーマンスを見せたセナは、ワールドチャンピオンを獲得しました。

 

本能のままに(1988年、モナコ)

1988年のモナコグランプリでMP4/4を駆ったセナは、その予選で、後に彼自身が「異次元にいたようだった」と語る瞬間を体験することになりました。チームメイトのアラン・プロストに1秒以上もの差をつけて完走したそのラップを彼は、「純粋な本能で運転していた」と説明します。彼の走りは観客を完全に圧倒しました。後にセナは、このレースを、人生で最も厳しいレースだったと振り返っています。「88年のモナコで私は自分にこう言い聞かせた。“自分はやり切った。限界まで振り絞ってやり切ったんだ”と。こんな心境にたどり着いたことは、その後二度となかった」。

欲しいのはセナだけだ!(1991年、サンパウロ)

1991年ブラジルグランプリでセナは、自身の大切なホームタウン、サンパウロで走ることになりました。71周を周るレースで、セナは素晴らしいスタートを切ります。しかし、終盤に向けて、彼の車のギアのほとんどが動かなくなるトラブルが発生。大きく開いていた彼のリードは半分まで詰められます。それでも彼は、残った6速ギアのみを使って何とかフィニッシュラインまで車を進めます。そして、優勝を飾ったのでした。ギアが動かなくなった車をコントロールするという厳しい挑戦で、セナは、表彰台に上がってもトロフィーを持ち上げることすらできないほどに疲労困憊していました。こうして得た勝利は、セナ、そして彼のファンたちにとって、感動的なものとなりました。

1992年モナコグランプリでのアイルトン・セナ

どんな天候にも負けないチャンピオン(1993年、イギリス)

ドニントン城で知られるイングランドの小さな町のトラックで1993年4月11日に開催されたレース。誰もが、この日が忘れることのできないイースターの日曜日になるとは思ってもいませんでした。 雨はその日の朝から降りだし、霧が立ち込めたじめっとした気温の、典型的な英国的気候となりました。F1のレースでは、ファーストラップが白熱したものになることは珍しくありませんが、この日ドニントン・パークで起こったことは、その予想をはるかに上回るものでした。

この日のレースは、一人のドライバーにとってF1の歴史上最高のラップを披露するステージとなったのです。5位でスタートしたセナは、追い越しのチャンスがほとんどないと考えられているウェットトラック上に自分の走るべき軌道を見つけ、シューマッハを追い抜き4番手に。その直後の1カーブ後、今度はヴェンドリンガーも追い越し、その後も後者の追随を許さず豪快に走り続けます。インナーレーンを走り抜けたセナは、ヒルの前へ。はるか前方を走っているように思われたプロストを、大胆に追います。そして、サーキット内最速となるヘアピンカーブでブレーキを踏むタイミングを遅らせるというリスキーな行為に出てライバルを驚愕させ、トップに躍り出たのです。ウェットからドライへと移るコンディションのレースを走り抜けたセナは、優勝とファステストラップを手にし、真のレジェンドであることを見せつけたのでした。

アイルトン・セナ

世界に衝撃を与えた事故(1994年、イモラ)

1994年サンマリノグランプリ。このレースの予選は緊張感を醸すものとなりました。オーストリア人ドライバーのローランド・ラッツェンバーガーがクラッシュを起こし死亡。また、セナの後輩であるルーベンス・バリチェロも、大きなアクシデントを起こし負傷しました。そして決勝、アイルトン・セナの車がコースを外れ、コンクリートバリアに衝突したのです。後のデータによると、コースアウトした際には192mphの速度が出ていました。その日の夕方、深刻な外傷と出血多量によるセナの死亡が発表されたのでした。1994年5月1日。この日はモータースポーツの歴史で最も暗い日となりました。

アイルトン・セナ

生き続けるセナのパワフルなレガシー

34歳、その素晴らしいキャリアの頂点で起きたセナの悲劇的な死は、彼のファン、そして世界中のモータースポーツのコミュニティに衝撃を与えました。このレースはF1の転換点となり、新しい安全基準の設置を促しました。超人的な軌跡を残してきたキャリアに突然の終止符が打たれたセナは、早すぎた消滅を遂げたレーストラックのスター、スポーツ界のヒーローとして記憶に残り続けます。

彼のレガシーは、多くの側面をもち生き続けています。特に、ブラジルの子供たちや若者たちに向けた教育促進を行うアイルトン・セナ財団を通しての活動は顕著です。財団は、教育に関する専門家、調査団、第三者機関と連帯し、公的教育政策の改善に努めています。

「タグ・ホイヤーフォーミュラ1」アイルトン・セナ スペシャルエディションで、タグ・ホイヤーは、アイルトン・セナの生前、そして亡き後の伝説を讃えます。サンレイ加工サテン仕上げのアンスラサイトダイヤル、光沢のあるブラックのカウンターを備え、セナのシグネチャーカラーであるイエローのアクセントを施した43mmサイズの美しいタイムピースは、セナのパワーを感じさせます。どんなにスピードが出ていようと、適応能力と落ち着きを失わない態度の象徴です。

この新しいリミテッドエディションについての詳細は、タグ・ホイヤー公式サイトをご覧ください。

ブランド「SENNA」は、1992年、アイルトン・セナ自身により創設されました。高品質でイノベーティブなプロダクトを通して、自身と同様の価値観と人生観をもつ人々と繋がりたいという、セナの思いから誕生したブランドです。今では世界的なブランドに成長し、自分の目的を見つけ、最高の自分を目指したいと願う人々にインスピレーションを与えています。アイルトン・セナがその人生で見せたように。ブランド「SENNA」の収益の一部は、ブラジルの子供たちや若者たちに向けた公的教育政策の改善に努める、アイルトン・セナ財団に寄付されます。過去26年の間に、財団は2,500万の子供たちに支援をしてきました。

WWW.SENNA.COM

WWW.AYRTONSENNA.COM