サヴォワールフェール その名に込められた意味 – タグ・ホイヤー シルバーストーン

7分

ウェリントンやマトンからRACまで:イギリスの象徴、シルバーストーン・サーキットの歴史

その昔、第二次世界大戦の真っ只中に、イギリス空軍(RAF) の爆撃機の基地として建設されたのが「RAFシルバーストーン」 です。時は1943年。シルバーストーンに駐屯するRAF第17作戦訓練部隊が、ヴィッカース・ウェリントン双発爆撃機の操縦方法をパイロットたちに教えていました。こうした大型戦闘機は、小さな芝生の飛行場では使用できないため、シルバーストーンには2本の長い“アスファルト”の滑走路が用意されました。さらに第3滑走路を加えて、典型的な三角形を形成し、風向きに応じてより効果的な離着陸ができるよう設計されました。ですが、それから一世紀近くが経過した今、その滑走路が感動のストーリーを生み出す舞台になるとは、設計者たちもよもや想像できなかったことでしょう。

新たな役割

戦争の終結とともに閉鎖されたシルバーストーンは、その後数年、ほとんど顧みられることもありませんでした。近くのシルバーストーン村に住むモーリス・ゲイガンが、フレイザー・ナッシュの新型スポーツカーを手に入れるまでは…。たまたまこのクルマを買ったことが、その後四分の三世紀近くに渡る波乱万丈の英国モーターレーシング史を形成する重要なきっかけになるとは、彼も思いもしませんでした。おそらくそこには、当時の勇気や無謀さを忍ばせる雰囲気がどことなく残っていたのでしょう。軍役を終えた若者たちは“普通”の生活に戻っていきましたが、心の中では冒険、あるいはリスクそのものを渇望していたのです。

自宅周辺の田舎道では限界があることに不満を感じていたゲイガンは、自分が手に入れたスピードマシンをそれに見合ったペースで走らせることができる長く伸びたオープンスペースを探し回りました。少し遠出をしたある日のこと、彼は近くの飛行場で、滑走路から外周道路に出て、また滑走路に戻ることが出来るのを発見し、興奮しました。彼の新車のパワーを最大限に試すことができるサーキットが存在していたのです。 ひとりで存分にマシンをスピンさせると、ゲイガンは数人の友人にその秘密を明かし、1947年9月、12人のドライバーによる即席のレースが開催されました。この日は、伝説的な「マトン(羊の肉) ・グランプリ」 として歴史に名を残すことになります。この名は、ゲイガンがレース中、サーキットに迷い込んできた羊と派手に衝突したことに由来します。幸いドライバーは助かりましたが、マシンも羊も無事では済みませんでした。

アルノ・ハスリンガー - ホイヤーのクロノグラフとモータースポーツ - 撮影:クレメンズ・コイス

“ホーム”を探して

ちょうどその頃、王立自動車クラブ(RAC) と呼ばれるイギリスの団体も国内に新しいレース会場を探していました。 新しいF1グランプリシリーズでイギリスラウンドを開催することになっていたので、サーキットを見つけなければならなかったのです。「マトン・グランプリ」 というアウトローたちが巻き起こしたセンセーションの噂がRACのスタッフの耳にも入り、サーキットを視察することになりました。そして、その可能性に惹かれた彼らは、航空省にリースを依頼しました。その後間もない、1948年10月2日、シルバーストーンで「RAC国際グランプリ」 と呼ばれる最初の公式レースが開催されることに。ドライバーたちは、長いストレートの間にタイトなヘアピンカーブを挟んだ滑走路でレースを行い、コースは干し草の塊で区切られていました。

この最初のレースで中央のクロスオーバーポイントに向かって猛烈なスピードでマシンが突進したため、(元々常軌を逸している) ドライバーたちのリスクが軽減するよう、コースが滑走路一本に加えて外周道路も含むよう変更されました。1950年、初のF1グランプリが正式に開催され、他ならぬ当時のイギリス国王ジョージ6世もその場に立ち合いました。今に至るまで、在位中の国王がレースを観戦したのはこの時しかありません。1950年に第1回目のグランプリが開催されて以来、16回目を除くすべてのイギリスでのF1レースがシルバーストーンを舞台にしてきました。1963年から1986年までは、イギリスGPがシルバーストーンとブランズハッチで交互に開催されましたが、それ以降は出発点のみとする状態に戻っており、シルバーストーンが「イギリスGPのホーム」 として知られるようになっています。

ホイヤー シルバーストーンの誕生

1970年代のモーターレース全盛期、ジャック・ホイヤーはホイヤーと世界中の名だたるモーターレーシング界の関係者やサーキットとの間に切っても切れないつながりや協力関係を築いていきました。 シルバーストーンの伝説的な精神と、その危険なコースを支配したドライバーたちに惹かれたジャックは、ホイヤーとF1の相乗効果にますますインスピレーションをかき立てられていきます。当初は、4年後に「ホイヤー・モナコ」 に代わるモデルとなることを想定していたものの、この新しいデザインは先代モデルと極めて良好な関係で共存していくことになります。

1973年に発表された初代「キャリバー12 シルバーストーン」 は、モナコのアヴァンギャルドなスクエアケースをソフトにしたまま、ラッカー仕上げのレッド、サテン仕上げのブルー、サンバースト“ソレイユ”仕上げのフュームという美しい3種類のダイヤルをラインナップしました。工夫を凝らしたデザインは、ダイヤルが実際にはラウンドで、ベゼルは凹型になっています。ストラップとケースの接点を隠すフード付きラグ、深くくぼんだベゼル、ねじ込み式ケースバックといった特徴もこの妥協のないモダンなモデルをより一層際立てています。シルバーストーンの名を冠したヴィンテージ ホイヤーは、他にあと一つのみ。1980年代にレマニア5100を搭載し、チャコールグレーのダイヤルで発表されたモデルです。

タグ・ホイヤー シルバーストーン

再設計され、復刻され、生まれ変わる

その後数十年にわたり、シルバーストーンのコースは何回かマイナーチェンジが施されたものの、ほぼオリジナルのレイアウトを保っていました。しかし、1990年代に入ると、徹底的に設計し直されることになります。超高速レースが長年続いていたシルバーストーンが、次第によりテクニカルなコースへと変化し始め、レースではスピードだけでなく巧みなドライビングテクニックが求められるようになっていきました。セナとラッツェンバーガーの死後、ドライバーの安全性を高めるために多くのグランプリサーキットが改造され、シルバーストーンのコーナーも再び調整されます。2000年代初頭、さらなる改良が求められるようになり、2010年にはサーキットの形状が変更され、新しいピットの施設も増築されました。21世紀を迎えると、シルバーストーンは、危険性は大幅に減少したものの、よりテクニカルでチャレンジングなレース会場として生まれ変わりました。

2011年、タグ・ホイヤーは、1970年代に発売された伝説の「ホイヤー シルバーストーン」 を蘇らせ、大きな反響を呼びます。このモデルは単にヴィンテージデザインを見事に復刻しただけでなく、現代の時計技術の粋も組み合わされています。 その名の通り、シルバーストーンの復刻版は、魅力たっぷりだったオリジナルの精神をそのままに、何点かデザインがアップグレードされています。定番のブルーまたはフュームカラーのダイヤルで発表されたこのスリリングな復刻モデルには、もう一つ主役がありました。あのレオナルド・ディカプリオのリクエストにより製作されたレッドダイヤルのユニークピースです。当時アンバサダーだった彼は、自身の慈善団体であるグリーンクロス・インターナショナルのためにこの時計をオークションにかけました。これにより、シルバーストーンに新たな側面がもたらされました。つまり、単に“端正な顔立ち”をしているだけでなく、この時計には実際に世界を変える力があることを証明したのです。