ストーリー モータースポーツの道を切り拓いた3人の女性

5分

国際女性デー2025を祝い、タグ・ホイヤーはモーターレーシングとレース計時の歴史において、重要な役割を果たした3人の素晴らしい女性に敬意を表します。モータースポーツの歴史にその名を刻むことで、彼女たちは男性優位の環境の中で見事その実力を証明したのです。

国際女性デー2025を祝い、タグ・ホイヤーはモーターレーシングとレース計時の歴史において、重要な役割を果たした3人の素晴らしい女性に敬意を表します。モータースポーツの歴史にその名を刻むことで、彼女たちは男性優位の環境の中で見事その実力を証明したのです。

ジャネット・ガスリー

ジャネット・ガスリー:女性レーサーのパイオニア

1938年にアメリカのアイオワシティで生まれたガスリーは、物理学の学位を取得し、航空宇宙工学の分野に進みました。しかし、3年もしないうちに自らの心の声に従い、レーシングドライバーとしてのキャリアを追い求めることを決意します。45ドルで手に入れたステーションワゴンの後ろにトレーラーを連結して愛車のジャガーXK140を運びながら、全米各地のスポーツカーレースに出場しました。1966年、彼女はデイトナ24時間レースに初参戦。エントリーしていた2つの女性のみで構成されるチームのひとつ、サンビーム・アルパインを操縦しました。ボストン・グローブ紙は「デイトナでポルシェと女性たちに驚かされる」という見出しでこの大会を報道しました。国際的な24時間耐久レースを完走した初の女性チームとなった彼女たちは、ボストン・グローブ紙が報じたように「最も手強い男性ドライバーたちと競い合うことを選んだ」のです。

ガスリーはその後、セブリング12時間レースで2度クラス優勝を果たしました。しかし、彼女にとって大きな転機となったのは、スポーツカードライバーとしてのキャリア13年目。チームオーナーのローラ・フォルステッドからインディ500の予選出場のチャンスが与えられたときでした。それは1976年のことで、翌年、彼女はこの有名なサーキットでのレースに参戦した初の女性となります。その後、ガスリーはデイトナ500にも出場し、1976年から1980年までNASCARウィンストンカップシリーズで戦い続けました。1978年、彼女は自身がチームマネージャーを務めるチームでインディアナポリス500に出走し、9位で完走。骨折した手首をいたわりながらの快挙でした。インディカーレースでの彼女の最高成績、1979年のミルウォーキーでの5位は、女性レーサーの記録としてその後20年間破られることはありませんでした。彼女の腕元には、ブラックPVDコーティングを施した2レジスターのホイヤー クロノグラフが輝いていました。

ジュディ・ストロプス

ジュディ・ストロプス:高精度のヒロイン

ジャネット・ガスリーがステアリングを握って歴史を作っていたとき、ジュディ・ストロプスもピットウォールで同じことをしていました。リトアニアで生まれた彼女は、第二次世界大戦後、アメリカに渡り、1960年代になるとスポーツカーレースの世界に深く関わるようになります。彼女は1970年代に全米のさまざまなカップ戦に出場し、優れたドライバーであることを証明しました。しかし、彼女が真の才能を発揮するのに役立ったのは、ストップウォッチと鉛筆でした。

彼女はデイリー・スポーツカー誌のインタビューでこう語っています。「私はクイーンズ・スポーツカー・クラブで計時とスコアリングの仕事を始めました。そこにいた女性 (リー・ソレンティーノ) がやり方を教えてくれたんですが、『え、これだけのことなの?』と思いました。それ以外のやり方も知らなかったし。誰でもできると思っていました。これは、自分にもできることだと気づいて、そして実際うまくできたのです。」

ストロプスは、ホイヤーの11.404 フライバックストップウォッチと硬い3番の鉛筆 (2番の鉛筆では摩耗が早すぎたため) だけを武器に、複数のマシンのタイムを同時に計測する能力で知られるようになります。彼女の鋭い洞察力、高度な暗算力と記憶力に匹敵するのが彼女の驚異的なスタミナ。全くの休憩なしで最初から最後まで24時間耐久レースのタイム計測をやり遂げることで知られていました。まだデジタル化が普及していない当時、ストロプスはグリッド上に並ぶすべてのレースチームが羨む才能を持っていたのです。そのキャリアを通じて、彼女は、カンナム、トランザム、インディ500で活躍したペンスキー・レーシング、バド・ムーア・レーシング、BMW、アメリカン・モーターズ、ポルシェやシボレーのカスタマーチームやファクトリーチームなど、世界トップクラスの名だたるチームで活躍しました。ストロプスによると、彼女の仕事ぶりがチームに極めて価値の高い貢献をしていたため、レース中にライバルチームの代表が、彼女の手書きのタイム計測メモを盗み見しようとしたという逸話さえ残っています。

彼女は、自身の成功を揺るぎない意志と謙虚な姿勢によるものだと考えていました。2021年に殿堂入りした国際モータースポーツ殿堂で次のように語っています。「私の家族には外科医や科学者、腕の優れたその道のプロなどがいて、私は常に、他の人たちは誰もが私よりも優れていると思っていました。こうした注目度の高いチームのために正確な仕事をすることが何よりも重要でした。それがものすごいプレッシャーになります。一度高い評価を得たら、その期待に応え続けなければなりませんから。」

ジョアン・ヴィルヌーヴ

ジョアン・ヴィルヌーヴ:サーキットの内外で壁を打ち破ってきた女性

アナログ時代のモーターレーシング界に生きていたストロプスは、タイム計測技術が進歩すると、PRコンサルタントに転身。その第2のキャリアも大成功を収めます。ただし、タイム計測席からモーターレーシングの世界に影響を与えた女性は、彼女が最後ではありません。

ホイヤーの愛好家であれば、ジャン・カンピチェの名はご存じだと思いますが、彼は、長年ホイヤーのスポーツ計時部門を率いていた元バイクレーサーです。特に、この時計メーカーがフェラーリと画期的なパートナーシップを結んでいた時代にその手腕を発揮した人物です。彼のかたわらには、常に有能なアシスタントがいましたが、そのひとりがジョアン・ヴィルヌーヴ。1978年から1982年に亡くなるまでフェラーリで活躍した伝説のカナダ人ドライバー、ジル・ヴィルヌーヴの妻です。

カンピチェと共に働き、彼女はチームとの重要な架け橋となりました。彼の計時ステーション(鮮やかな赤いカラーで知られる象徴的なホイヤー 「ル・マン センチグラフ」)から、チームと連携を取っていたのです。彼女の仕事は、プリントされたタイムを集め、各ドライバーの列が並ぶA4サイズの紙と小さなプルタブが付いたプレートに書き写すこと。より速いタイムが出ると、タブの位置が変更され、古いタイムは消されて新しいタイムが書き込まれました。プレートはピットストップ中にドライバーとエンジニアに示され、彼らの分析と戦略的意思決定のためのリアルタイム情報が提供されたのです。こうした冷静沈着で効率的な彼女の仕事ぶりは、「レースに勝つにはチームワークが重要」という昔からの格言を証明するものとなり、ジャネット・ガスリーやジュディ・ストロプス同様、ジョアン・ヴィルヌーヴも、女性が常にこのスポーツで影響力のある役割を担ってきたことを示しました。