ストーリー その名に秘められた想い セブリングでひらめいたアイデア

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1962年、ニューヨークのオフィスからフロリダ州ハイランズ郡への出張に出かけた、ジャック・ホイヤー。目指すのは、第二次世界大戦中、B-17パイロットの訓練基地であったヘンドリックス陸軍飛行場の跡地にできた、セブリング・レースウェイ。欧米の多くの飛行場跡地と同様に、この基地もレーシングドライバーのフィールドへと姿を変えていたのです。

家業の時計メーカーの若きCEOだったジャックは、スポーツ・カー・クラブ・オブ・アメリカ(SCCA)から、「セブリング12時間フロリダ国際耐久グランプリ・アリタリア・カップ」という長い名前のイベントへの招待を受けていた。公式計時装置として使用するために12個のホイヤー ポケットクロノグラフを主催者に貸し出し、モーターレーシングファンでもあった彼を、この招待を受けるよう説得する必要はなかった。

この耐久グランプリには、スターリング・モス、グラハム・ヒル、ブルース・マクラーレン、ロジャー・ペンスキー、ダン・ガーニーを初めとするスタードライバーが集結し、栄えあるレースでの勝利を虎視眈々と狙っていた。さらに、グリッド後方には、もう一人のモータースポーツファン、スティーブ・マックイーンもドライバーとして参加していた。そしてレーシングカーは? 60年代初頭に競争力のあるマシンとなるには、イタリア製で、赤で、パワフルなエンジンが必要だった。だが、そのコンセプトも他のブランドからの挑戦を受けつつあった。

Grand Prix Race, Sebring, Florida, December 1959 - photo by Dave Friedman

だがジャックは、セブリングに向けて出発する前、自分がこのレースに参加することが時計ブランドであるホイヤーにとって極めて重要なターニングポイントになるとは思ってもみなかった。1960年代のモーターレーシングは、ありえないほどに華やかで、紛れもなく危険なものだったが、それでもまだ大口スポンサーがついたり、巨額の広告予算が投資されることはなかった。自動車メーカーにとってもモーターレーシングは、世界的な広告プラットフォームというよりも、技術的なソリューションを見つけ出すための熾烈な実験場であり、自動車関連ビジネスに携わる以外の人で、モーターレーシングが秘めた並外れたマーケティングの将来性を見抜いている者はほとんどいなかった。

だがジャックには分かっていた。フロリダ州中央部に位置するこのユニークなレーシング会場の埃と湿気の中を歩いていた時、ジャックはまるで触媒作用のように、様々な要素が混ざり合って一つになるような体験をしたと言う。彼の頭の中を占めていたのは、まだ名前のつけられていない新しいホイヤー クロノグラフの位置付け、そして精度と精確さに関して彼の会社が築きつつあった評判だった。

だが何かが欠けていた。こうした要素は、ダイナミック、激しい競争、リッチ(金銭的にもストーリー性の面でも)という特徴を兼ね備えた一つの対処可能な市場を中心に形成される必要があった。それは、文字通り、彼の目の前にあった。

「セブリングで最も印象的だったのは、プロのロードレーシングパイロット、アマチュアのジェントルマンドライバー、そしてSCCAなどのレース団体に所属するかなり裕福そうな観客が混在していたことでした。

« 私はその時、その場所で、このモーターレーシング愛好家たちの集団が、ホイヤーにとっての自然なターゲット顧客層であることに気付いたのです」 »

ジャック・ホイヤー タグ・ホイヤー名誉会長

だが、1962年のセブリングでジャックが悟ったことは、それだけではなかった。モーターレーシングのファンでもある彼は、レーシングパドックにいると気持ちがなごみ、その場にいる人たちとも心地よく、自分たちが知っていることをあれこれ話すことができたのだった。その後まもなく、メキシコのレーシングドライバー兄弟、ペドロ・ロドリゲスとリカルド・ロドリゲスの両親と話をしているうちに、彼らが自分たちの祖国では危険すぎて禁止されてしまったレースがあることを話し出した。両親はジャック・ホイヤーに、二人の息子が生まれたのが遅くてこのレースに参加できなくてほっとしていると言ったのだ。

両親が夢中になって耳を傾けていたジャックに話したモーターレースこそが、カレラ・パナメリカーナだった。ほとんどのコースがメキシコの未舗装公道で行われる、人間とマシンの耐久性を試す過酷な長距離レースだ。

Umberto Maglioli, winner of the fifth and final Carrera Panamericana, in a Ferrari 375 Plus

カレラ? カレラ!

それだ! それを新しいホイヤーのクロノグラフの名前にしよう。スイスに戻ったジャック・ホイヤーは、急いで「ホイヤー カレラ」という名前を商標登録し、会社の過半数株主として、次に作る時計を「カレラ」と呼ぶという大胆な、しかし究極の断固とした決断を下したのだった。

« 「その魅惑的な音の響きだけでなく、ロード、レース、コース、キャリアなどの様々な意味を持つその名前がとても気に入ったのです。全てがホイヤーにぴったりだと感じました」 »

ジャック・ホイヤー タグ・ホイヤー名誉会長

だがこの話にはちょっとしたひねりがある。1962年のセブリング レースでは、銀色に輝く高性能な美しい小型のレーシングマシンが、バトルの最後までずっと赤いマシンたちの力に対抗し続け、これから起こるであろうことの前触れを示したからだ。ポルシェ718 RS 60 は、技術の粋を集めて設計された小容量エンジン搭載のスポーツカーで、ライバルが12気筒エンジンを搭載していたのに対し、4気筒エンジンを搭載していたことから、理論上は様々なハンディキャップがあるとみなされたものの、見事表彰台に上ったのである。小型車でありながら、すでに名を成したライバルたちの悩みの種となったことを実証し、1960年にはセブリング レースで総合優勝も果たしている。

この大物食いのポルシェ718 RS 60に搭載されている小型4気筒4カムシャフトエンジンは、現在、精密工学における史上最も優れた技術の一例とみなされている。実際、「4カム」は、その製造方法が極めて精緻であることから、しばしば「スイスウォッチのような」と形容される。

このエンジンを担当したポルシェのメカニックたちは、実はこのエンジンに「カレラ」という別の名を付けていた。それは、わずか数年前にエンジンが進化し完璧なものへと作り上げられたのがカレラ・パナメリカーナのレースだったからである。この名は、ジャック・ホイヤーと同様、ポルシェでも共鳴し、後に十数台のモデル名としてポルシェに刻まれた伝説となった。

自動車業界と時計業界で「カレラ」という言葉が精密工学の代名詞となってから60年近くが経過した今、「カレラ」が「タグ・ホイヤー」と「ポルシェ」という言葉と初めて一体化し、新しいクロノグラフのシリーズとして登場するのもまさに絶妙なタイミングと言えるだろう。

1964 Heuer Carrera 45 Chronograph Ref: 3647