スポーツ レジェンドを巡る31のエピソード:アイルトン・セナの足跡を辿る

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アイルトン・セナのレガシーは、単に記録として残っているだけでなく、最期のレースから31年が経った今も、その鮮やかに輝く才能、誠実さ、たゆまぬ努力に心動かされた人々の心の中に生き続けています。

単なるチャンピオンという以上に、アイルトン・セナは、強烈で、緻密、そして深く人間的な、まさに自然の力そのものといった存在でした。そこでこの記事では、あるひとつの出来事だけを振り返るのではなく、レーサーになったばかりの頃の困難への挑戦から、勝ち方そのものに革新をもたらしたレーススタイル、揺るぎない信条、そして世界中に与えた永続的な影響まで、セナの生涯における31の印象的な瞬間を辿ります。こうした31の瞬間が一体となることで、なぜセナを巡るストーリーが今なお色褪せないのか、そして30年以上経った今でも、いかに彼が模範を示し、目標となり、影響を与え続けているのかが明らかになります。

モーターレーシングにおけるセナの輝き

1 / 1988年のモナコGP。予選でセナはプロストを1.427秒も上回るタイムでポールポジションを獲得。後に彼はこの時のドライビングについて、まるでトランス状態になったかのように「人知を超えていた」と語っています。

2 / 1993年のイギリス、ドニントンパーク・サーキット。土砂降りの雨の中、オープニングラップでセナは4台のマシンを次々に抜き去りトップに立つという、人々の記憶に深く刻まれ、語り継がれるF1®史に残る走りを見せます。

3 / セナが打ち立てたポールポジション獲得数65回は、12年間破られることなく、予選でラップを刻むごとに彼が見せたテクニックや集中力がいかに高かったかを証明するものとなっています。

4 / 1991年、セナは母国ブラジルでのGPで悲願の初優勝。ギアボックストラブルで6速のみでの走行となり、疲労困憊の中、あふれ出る涙をこらえながら表彰台に立ちました。

5 / 1984年のニュルブルクリンク・レース・オブ・チャンピオンズで、セナは、同じメルセデス・ベンツを駆る19人のエリートドライバーを打ち破り見事優勝を飾ります。若き無名ドライバーの非凡な才能が開花した瞬間でした。

6 / 1984年から1993年まで、セナは、モナコグランプリに10回出場。優勝6回、ポールポジション5回、ファステストラップ4回、ポディウム8回、ハットトリック6回を達成しました。モナコ公国での6度の優勝は、今なお破られていない最多記録であり続けています。

7 / 2度目のF1®シーズンとなる1985年、セナは格上とされていたロータスのチームメイトを予選で7勝1敗と圧倒し、この年の年間最多ポールポジション獲得を記録します。

8 / セナは137回連続で、予選セッションにおいてトップ10以内のグリッドを獲得。このF1®史上最長の連続記録も未だに破られていません。

9 / 1984年にダラスでクラッシュした後、セナはエンジニアたちに「壁が動いた」と語っていたと言われます。確かに、壁は動いていました。わずか数ミリでしたが。セナは気づいていたのです。

10 / 1990年の鈴鹿。セナはスタート直後の1コーナーでアラン・プロストと接触し、両者リタイア。この物議を醸した事件により、セナは2度目のワールドタイトルを手にします。

 

セナの卓越したクルマに対するセンス

11 / モナコでのセナは、スロットルをあおり、クラッチを滑らせることでターボのレスポンスを微調整し、ブースト圧を最適な状態に保っていました。

12 / ホンダ NSX開発時のテスト走行で、ステアリングを握ったセナは「ボディがやわらか過ぎて話にならない」と酷評。これによりホンダのエンジニアたちはボディの剛性を強化。セナの意見が伝説の名車を生んだのです。

13 / セナは細かいことまで驚くほどよく覚えており、夕食後にガレージに戻ってきて、各ラップを驚異的な精度で再現することがよくありました。現在のF1で使われているような高度なテレメトリーシステムが導入されるずっと以前の話です。

14 / 1986年、セナはウェールズの森の中でラリーカーのテスト走行を行い、瞬く間にカウンターステアとオフロードでのトラクションテクニックを身につけてしまいました。

15 / セナは当時インディカーで活躍していたフィッティパルディに勧められ、インディカーのテスト走行に参加します。わずか24周でフィッティパルディのラップタイムを上回り、49秒09を記録。まさに生まれ持った才能がそのまま生かされた結果でした。

 

セナの内なる世界

16 / 1992年、ベルギーのスパ・フランコルシャン。フリー走行中、セナはクラッシュしたエリック・コマスを助けるためマシンを止め、コマスのマシンに近づくと、爆発を防ぐためエンジンを切り、救急隊員が到着するまでコマスの頭部を支え続けたのです。コマスは後にセナを命の恩人と呼んでいます。

17 / セナは極めてスピリチュアルな人で、レース前は祈りを欠かさず、神や運命に対する自らの信仰についてもオープンに語っていました。

18 / セナは、亡くなる数週間前に、公にすることなく数百万ドルもの寄付を行い、子供の貧困と闘うための財団を共同で設立していました。この財団がアイルトン・セナ・インスティテュートとなり、以来ブラジルで3500万人以上の若者の生活を支援してきました。

19 / セナは若い頃の弱点を克服するため、雨の中何時間もカートの練習に励み、やがて「レインマスター」と呼ばれるようになります。

20 / 1993年のオーストラリアGP後、セナはティナ・ターナーのライブ会場に足を運び、ステージに上がりました。彼女は、観客に向かって、「彼こそ“The best”よね!」とセナへの賛辞を贈り、自身のヒット曲「The Best」を彼のために熱唱したのです。

21 / セナはポルトガル語、英語、スペイン語、イタリア語に堪能なマルチリンガルで、この才能が、彼がグローバルなファン層を築くことに貢献しました。

22 / レースがない時には、セナはチェスに熱中していました。フランク・ウィリアムズは、セナが常に3手先までを読み、反撃の準備をしながらプレイしていたと語っています。

23 / かつてライバルとして激しい火花を散らしたアラン・プロストとの友情は、イモラでのファイナルラップ前にセナが無線で前年に引退していたプロストに「アラン、君がいなくて寂しいよ」と話しかけたことで、確固たるものとなりました。

24 / セナはかつて、「私が敬意を払うのは、努力、献身、能力。人格ではなく、普遍的な原理・原則なのです」と語り、自分には憧れのレーシングドライバーはいないと明かしています。

25 / 1983年、セナはマクラーレン、ブラバム、トーレマン、ウィリアムズのテスト走行に参加。エンジントラブルに見舞われたにもかかわらず、セナはマクラーレンのマシンでその日の最速タイムを記録しました。

26 / 子供の頃、セナは協調運動が苦手で、神経科の検査を受けたこともあります。やがて彼はその弱点を自身の最大の強みに変えていきます。

 

今も色褪せないセナの影響力

27 / 300万人を超える人々がサンパウロの沿道に集まり、セナの葬儀に参列しました。比類なき国民的英雄の死が深く哀悼されたのです。

28 / セナの姉であるビビアーニが代表を務めるアイルトン・セナ・インスティテュートは、1994年以来、ブラジル全土で3500万人以上の子どもたちを支援してきました。

29 / セナの激突事故があったイモラ・サーキットのタンブレロ・コーナー近くにあるセナの銅像には、毎年何千人もの人々が訪れ、静かな追悼の場となっています。

30 / ジュニアレーサー時代のセナが過ごしたイングランドのレディングには、アイルトン・セナ・ロードという名前の通りがあります。

31 / セナはかつて、「2位は、敗者たちの中で一番良かったにすぎない」と述べたことがあります。31年経った今でも、彼のそうした常に1位を目指す精神が、人々の心の中で最も重要な価値観として輝き続けています。

 

アイルトン・セナのストーリーは、勝利の数だけで物語れるものではありません。彼のストーリーは、このブラジルが生んだレジェンドがこだわった規律、反骨精神、限界を超えようとする強い意志といった細部に息づいています。ここで紹介した31のエピソードが、なぜセナの名前が今なお畏敬の念を集めるのか、そしてなぜ30年以上経った今も、サーキット上だけでなく、それをはるかに超えた領域でも彼の存在感が決して薄れていないのかを私たちに改めて教えてくれます。